「調査も、企画も、経理も、品質チェックも、全部ひとりでやって」。人に頼めば無理だと分かるこの依頼を、私たちはAIにはやりがちです。
結果は、人間の場合とよく似ています。指示の範囲が広がるほど、AIは何を優先すべきか分からなくなり、途中で目的を見失います。第2章で見た「文脈の窓」も、あれもこれも詰め込むうちに埋まってしまう。能力の問題ではなく、注意力の分散の問題です。
そこで、エージェントを何体も用意し、役割を分けて働かせます。これがマルチエージェントです。会社に置き換えると、そのまま組織図になります。
観測係 ── 日々のデータを見て記録する
知識係 ── 会社の記憶を整理する(第3章のRAG)
統率係 ── 仕事の段取りをつくる
判定係 ── 最終判断の材料を人間に渡す
分けると、ひとりぶんの指示が短くなります。短い指示は、迷いを生みません。それぞれに渡す道具も絞れるので、第4章で書いた歯止めも効きやすくなります。経理係に削除の権限を渡す必要は、どこにもありません。
分けたら、今度は束ねる必要があります。誰に、何を、どの順で渡すのか。この交通整理をオーケストレーションと呼びます。オーケストラの指揮者と同じ語です。
全体の進行を受け持つ役。仕事を分解し、担当のエージェントへ配り、返ってきたものを繋いで仕上げる。指揮者自身は演奏しません。
配り方には型があります。直列は、前の結果を次が受け取る流れ作業。調査→執筆→校正のように、順番に意味があるときに使います。並列は、同時に走らせて最後に束ねる形。三つの市場を同時に調べるような場合、待ち時間が三分の一になります。
そしてハンドオフ。担当外だと判断したエージェントが、自分で適任者へ引き継ぐやり方です。窓口が受けて、専門部署へ回す。あの動きだと思ってください。
分ける理由は、速さだけではありません。相互チェックが、おそらく最大の利点です。
YOHAKU OS では、重要な提案のとき三役で議論させます。案を出す提案役、穴を探す批判役、両者を突き合わせる分析役。しかも、それぞれ別のモデルを使います。
同じAIに自己採点させると、評価はまず甘くなります。自分の出した文章は、そのAIにとって「それらしい」に決まっているからです。ところが別のAIに反証させると、弱点が実際に出てきます。第2章のハルシネーションに対する、もっとも実用的な備えのひとつです。
三つめの利点は、止まらないことです。一体に全部を任せていると、それが不調になった瞬間、何もかも止まります。役割が分かれていれば、詰まった一体を切り離し、別の経路へ回して全体は動き続けられます。
実務では、ここが効きます。うまくいったときの性能より、うまくいかなかったときに何が残るか。設計の値打ちは、たいていそちらで決まります。
ここまで読むと、「AIが勝手に経営してくれるのでは」と思われるかもしれません。答えは、はっきり「いいえ」です。
YOHAKU OS には、決めるべきことが必ず一人の人間を通る形(双円錐)が組み込まれています。AIがどれだけ調べ、議論し、案をまとめても、承認・却下・方針の決定は、人間の一点にしか置いていません。ここを迂回する経路が、そもそも存在しない設計です。
逆に、決めなくてよいことまで人間に上げる設計にはしていません。記録、集約、下調べ、点検、決まった時刻の巡回──手順が決まっていて、間違えても戻せるものは、手前の層で自動的に片づきます。全部を人間に確認させると、いちばん細い一点が詰まって、仕組みそのものが止まってしまうためです。通すものを絞るからこそ、通ったものに向き合えます。
AIが働き、育つ。人が仕上げる。
なぜそこまで徹底するのか。第2章で書いた「もっともらしい嘘」があるからです。AIは平気で間違えます。だからこそ、間違えることを前提に、間違いが致命傷にならない置き場所をあらかじめ決めておく。便利さのために、責任の所在をあいまいにしない。それが構造の役割です。
AIは、人間を置き換えるものではなく、人間が決めるための材料をきれいに揃えてくれるものだと考えています。一人でも抱え込まずに済むように。判断する余白を、人間の側に残しておくために。
ここまでが前半の弧です。用語はひととおり出そろいました。後半4章では、これらを実際に動かしたあとの話をします。合っているかをどう測るのか(第6章)、任せない線をどこに引くのか(第7章)、落ちたときに何が起きるのか(第8章)、そしていくらかかるのか(第9章)。
B-05-1 分けて良くなる仕事 ── 一体で足りる場面と、分けたほうがよい場面。
B-05-2 束ね方の三つの型 ── 順に流す、分けて集める、繰り返して直す。
B-05-3 反証させる価値と費用 ── 賛成しか返らない相手に、反対役を置く。